十津川の森から

12.08.10

ことぼしを灯して・・・



一番鶏(いちばんどり)が鳴いたら出発するよ!

 母の声に飛び起きた私は、手探りで枕もとの小灯(ことぼし)に灯りをともし、身支度を整えて居間に行きました。そこには、既に支度を終えた父や兄たちが炬燵(こたつ)にあたりながら私を待っていました。

 今日は楽しみにしていた「玉置祭(たまきまつり)」です。早速、母の作ってくれた握(にぎ)り飯(めし)とお茶を風呂敷に包み、提灯(ちょうちん)を片手に出発しました。時刻は、夜中の一時を少し回ったばかりで、空には星がまたたき、七ツ森の山の稜線や出谷学校が闇の中にぼんやり見えました。道端の木々にうっすらと積もる雪を小枝で払いながら、落ち葉を踏みしめしばらく歩くと、谷の口(たんのくち)に差し掛(か)かりました。この谷にある深い淵(ふち)は、古くから「タンノクチガマ」という淵の主の言い伝えがある場所で、ごうごうという引きこまれそうな水音に怖くなった私は耳をふさぎ駆け出しました。



 大字重里(しげさと)地内に入り、椎平(しいだいら)橋を渡ると道は本街道(小辺路)に入り、大津越(おおつごい)、真砂瀬(まなごせ)とひたすら歩いて大字平谷(ひらたに)に着きました。

 ここで、小辺路を離れ、更に蕨尾(わらびお)、垣内(かいと)、垣平(かいだいら)、やっと込之上(こみのうえ)まで来たときどこかで二番鶏の鳴く声がしました。

 折立からの参詣路は上り坂で、毎日山道を駆け上がりながら学校に通う私にも、初めての道は本当に遠く感じられました。大人たちに後れまいと足早に歩いていたのですが、前方に鳥居(とりい)が見えたときは、ほっとしました。一の鳥居を潜(くぐ)ったとき、遠くで三番鶏の鳴く声が聞こえたような気がしました。



 これは、祖母から聞いた話で、昭和二十年代の初め当時まだ8歳の少女が父や兄達と共に、大字出谷(でだに)松柱(まつばしら)から玉置山まで、片道五時間もかかる暗い夜道を提灯片手に歩いたときの様子です。

 当時は、電気がまだ付いておらず、室内では、ランプや小灯(ことぼし)という小さな照明器具を用いて油を燃やして灯りをとっていました。出かけるときは提灯や松明を利用し、炬燵は囲炉裏(いろり)に布団をかぶせた簡単なもので、冬は寒さに震えたそうです。
学校は山頂にあり、山をいくつも越え何時間もかかって通学する子もおり、水汲みや薪(まき)割りなどは子どもたちの日課で、冬は火鉢(ひばち)一つで寒さに震えながら学習したということです。

 広い道路はもちろんバスなどの公共交通もなく、主な移動手段は徒歩で、どこに行くにも細い山道を歩いて移動しました。娯楽のない時代に「祭」は子どもたちの楽しみの一つで、特に玉置神社の祭は「玉置祭」と呼び親しみ、村内各地から多数参詣して賑わったということです。玉置山(玉置神社)は熊野三山(速玉大社、那智大社、本宮大社)の奥の院といわれ、子どもから大人まで、村の数多くの人々の信仰の対象であり文化の象徴でもありました。

 玉置山の北側は 熊野灘の風雨を直接受けることも少なく、土地が肥(こ)えていたため環境の好条件と人口的保護により全国的にも稀(まれ)な巨杉群(きょさんぐん)が存在しており、この巨杉群は奈良県の「天然記念物」に指定されました。


 玉置山には樹齢三千年とも四千年ともいわれる杉もあります。樹木は、樹齢千年を超えると自ら新しい遺伝子をつくり、成長し続けるという話もありますが、人間の寿命をはるかに超える時を生きてきた木々に、私たちはどのように映るのでしょうか。

 出谷学校は、その後の統合で廃校となりました。子どもたちはそれぞれ新しい学校へ通うようになり、山頂の建物は長らくその姿を保っていたのですが、時の流れと共に風化し、周りの杉・桧の生長によって、六十余年経ったいま、跡形もなく消えてしまいました。時間の流れに人も移ろい、久しく留めておくことはできないものですが、いつの時代も変わらぬ姿で私たちの身近に山があります。

 玉置山頂からは山並み遥か向うに、熊野灘(くまのなだ)が見える日もあり、太平洋から世界中へと連なる自然の大きさの前には、心に刺さる小さな拘りさえも融けていくように思えます。里から仰ぎ見る山、山頂から見える人の暮らし、視点を変え別の立場で見ると、それまでと違ったものが見えてくることがあります。

 大震災、大水害と人の生命に関る自然の脅威が続く中、私達にできることは何か、古き良きものをもう一度見直し、新しき考えでもう一歩踏み出すための知恵と勇気が必要な時代(とき)の到来を感じています。


Posted by 木灯館






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